鷲見家’s blog

世代間のルーツを今に織り込む活動をする兄弟のブログ

鷲見家の歴史[前編]〜災い転じて福となす〜

こんにちは鷲見家長男です。

 

sntkd0624330.hatenablog.com

 

以前ブログでご紹介した曾祖母の戦争体験記の内容を今回はご紹介しようと思います。

この話は僕達の曾祖母である鷲見シズが語ったものを父が文字にして残しているものです。

 

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※写真の中心に居るのが曾祖母

 

禍転じて福となす

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語り手は鷲見シズ

戦争(第二次世界大戦)が、私達にどんな影響を及ぼしたかまた決して同じ道を歩んではいけないかを、わたしの半生を振り返りながら、皆さんに話したいと思います。

私達は、大正十四年五月十日に結婚いたしました。主人(與平)は数えの二十八歳で、私が十八歳でした。主人はとても几帳面な人でした。私が稼ぐ前から、毎年二百十日がすむと今年のお米の取れ高を見て、倉の籾を引いて十一月までの分を残して、残りは全部米屋さんに売るようにしておりました。

そのため我が家では、古米を食べることがなかったので、いつもおいしい御飯を食べることができて、大変有り難く幸せでした。

 
時代は太平洋戦争へ

ところが満州事変が始まり、次には昭和十六年に太平洋戦争が始まりました。

しだいに戦局が悪化してきて、家では水田から畑まで豆粕のおかげで作っておりましたが、一番頼りにしていた肥料の豆粕が入らなくなり大変困ってしまいました。

また、長男の貞雄は農林学校に通っていて、あちらこちらの開拓に引っ張り出されて勉強もできず、家が忙しくても一日も手伝ってもらうこともできなかった。

長女邦江には、家の仕事が忙しいので学校を休ませて、手伝わせていました。そんな邦江に白紙が来て、挺身隊として軍需工場へ十四歳で動員され、ますます人出がなくなりました。

肥料は手に入らず少しくらいの草を刈って入れても、農耕肥料がないので、次第おとりとなりました。供出米は年々当ってきて、昭和十九年十月には二十俵も当ってどうしても二ヶ月分足らないので、役場に行ってどうかして少しでもよいから引いてくださいと、二・三度お願いにいきましたが、聞いてもらえなかった。

 
すべてを引き払い終戦半年前に満州

そのころ近所の人が満州から遊びにきて見えて、満州でのいろいろな話しを聞きました。「満州では配給米も当るし、ジャガイモでもマメでもお金を出せばいくらでも手に入るからお腹を空かすことはない。」と聞きました。

内地ではお金を持っていても、鱒一匹を十四軒で分けてそれを七人家内では舐めるくらいでした。反物一反を十四軒で分ければ、1軒あたり二尺くらい。そんなに日本は者がなかったのです。

家には畑が四反もあったけど、蚕をたくさん飼っていたので、畑は全部桑畑で雑穀は取れず、家では水田の米だけが頼りでしたので本当に困ってしまいました。水田は八反あったが我が家で作ったのは五反でした。

主人と相談の結果、国策にそってお国のためにと思い、割り当て以上供出して満州に行くことに致しました。役場に申込にいくと、村の人達が私も私もと言って申込に来ていました。その後ある人に出会いまして、「鷲見さん満州に行かれるそうですが、行かれるのなら私に田畑を全部貸してください」と言われましたので、有り難いことだと思っておりました。

それから二十日程たってから、その人も「私も満州に行くように申込をして来ました」と言って来られ本当にがっかりいたしました。水田を作ってくれる人がいないので、山などを商うある人に、水田八反・畑四反・山六ケ所(そのうち一ケ所は一町以上もありました)それに家(間口六間半奥行き四間半)に蔵といろいろな道具を付て、三万五千円で売りました。

その当時は土地が安くて、田一反で三百円、畑が二百円、家が二百円くらいでした.その三万五千円のほかに預金七千円の計四万二千円を十年定期に入れて、内地に心残りのないようにして、満州に行くことにしました。長女邦江も挺身隊から帰って来ました身体は痩せて青白い顔をして来ました。随分食べ物が悪かったと思いました。

昭和二十年の三月頃満州に行く予定になっていましたが、伸び伸びになって五月の初めに満州に着きました。そして、長男貞雄も赤紙が来て、出征兵士となってお国のために出ていきました。

 
満州での生活

私達は満州の大陸にはびっくりしました。

水田も畑も肥料がなくても肥えていて出来るとのこと、本当に助かりました。さっそく牛を買って畑にかかろうと畑にいってみると、一畝行くのに見通せないくらい長い畝で、豆を蒔くのにも土を掛けるにもみな機械でやるので仕事がたくさん出来、おかげさまで食べ物も不足もせずに困ることもなく、過ごしてありがたいと思っていました。

ところが、八月九日の十時ごろに役場から通知で琿春まで避難せよとのことで、長女邦江十四歳にはお米や毛布などを持たせ、次女益枝には着物を持たせ、三女の秋子には学校道具などでいっぱいです。私は二歳の芳衛、五歳四女の里美の手を引いていろいろ持った、暑い夏の日でした。

三日間の避難ということで余分に身につけることもできず食べ物も持つことが出来なかった。琿春に着いたら無外車に乗せられ、間島の迩吉の朝鮮人学校に避難した。

 
終戦そして家族の他界

そして、十五日には敗戦になり日本が負けたと同時に、食物がコーリャンになりました。

二歳の芳衛には無理です。次の日から下痢をして日に日に身体は痩せて、元気はなくなり苦しむだけでした。

芳衛の死ぬ晩、私の姉がどこかでお米のおかゆを少しもらってきてくれたので「芳ちゃんお米のおかゆ」と言ってやったら、二口程ベチャベチャという音を立てて食べました。それが最後でした。息を引き取ったのは数時間後で、静かに九月二日亡くなりました。本当にかわいそうで仕方がありませんでした。

主人も下痢ぎみで、琿春に引き返す八日間の行軍が、病人には大変だったと思います。それに次女益枝がロクマクの病人であったので、行軍中我が家は避難しているみんなに追い着くと休憩が終わり、すぐに出発することが多くて一度も休まず、行軍しました。

夜などは草の上に六人が薄い毛布をかぶって夜を明かし、大雨が降るのに朝鮮部落の土くいにもたれて、ぶしやぶしやになって夜を明かしたこともあった。

行軍の最後の日、主人が倒れてしまいました。その時ソ連軍のトラックが通りそれには日本人の通訳がいたので乗せてもらうようお願いし、琿春の譽察官舎まで乗せていただきました。官舎は土間で、オンドルも石炭がなかったのでたくことができないし、アンペラ一枚ではとても寒かった。病人には、少し小米の配給が当ったので、おかゆをたいてやりサバの切り身を買ってきて、夕飯の支度をして子供に主人の面倒を見てもらい、その間に私は枯れ草を取ってきてオンドルをたいていたら、子供がきて「お父さんが、ちやわん落としたよ」言いに来たので見に行くと、はや目をすえて何も言いませんでした。

いつも毛布一枚を六人で着て寝るのをお父さんに着せてやり、そばについていても電気もなくローソクも少しで用心のためにと、とぼすこともできず暗闇で夜通し看病しましたが、明け方五時頃「ぎやくん」と声がしましたので、ローソクをとぼしてみたら、もはや駄目でした。とうとうお父さんも十月四日午前五時に亡くなりました。

本当に悲しくて、どうしてよいか分かりませんでした。五日には団の人が棺を作ってくださって琿春川の堤の下に埋めてくださった。本当に淋しくなりました。

 
苦しい日々

お父さんが亡くなったと言って悲しんでいるにもいかず、また食べることに困っているので休んでもおれず、満人の家にトウキビをむきに秋子と里美を連れて毎日行きました。次女益枝はロクマクが悪いので官舎において行き、トウキビの種の入らないのを頂き、食料替わりに火で焼いたりして食べました。

十二月に入りソ連軍の使役に出て、駅でいろいろの食べ物を運ぶ仕事に行き、ポケットや袋に入れ黙って持ってきたので大分助かりました。そして使役もなくなり食べ物もなくなった。配給はデンプン粕とコーリャンと豆腐粕を混ぜたシャブシャブしたものを小さな缶詰めの缶に一日に一杯しか当らなかったので、みんな腹が減ってふらふらになってしまった。

子供がかわいそうで仕方がないので、満人のところへ働きに行って、何かいただいてこようと思い出かけました。途中に川があり馬車でも通れるくらい氷っていましたが、真ん中ぐらいのところへ行ったらズボズボと片足がはまってどうすることもできず、爪で氷りをほってようやくはい上がることが出来ました。立ち上がるとすぐにしみてモンペがガサガサに凍りつき、一度は官舎へ帰ろうかと思ったけど、このまま帰ると子供がかわいそうと思い、中島へ働きに行った。

満人の家にたどり着くと家の人が私を見て、ズボンを貸してくれ、私のモンペを乾かし帰りには粟を一升ほどくださった。その時風邪をひき、発疹チフスにかかった。寒くて南京袋を拾ってきてつなぎ合わせて、そこえわらすくべや草を入れたりして、敷いたり着たりして上に薄い毛布をのせてこぞんで寝ました。

そのためみるみるうちにチフスがうつり、邦江・秋子と里美にうつり、私などは熱が高いので、足が立たなくなりました。次女の益枝が一人かからなくてロクマクの病人の身でありながら薬も飲まず、頭の毛も抜けて見る影もないくらいかわいそうな体で、水や氷で冷やしてくれたり、腰が立たないのでトイレの世話までしてくれました。本当に病人の身体で、良くやってくれました。命の恩人です。

ある時、四人が頭をならべて寝ていると、満人の夫婦が来て、里美を見て「この子をくださったら、家内みんなに食料を送ってあげる。その子もその方が幸せだし、皆さんも助かるのではないか、子供は大事に育てるからください。」と言って五・六日続けてみえました。私は熱に浮かされながら首を横に振ったそうです。

満人は諦めて、里美に六十円お金をくれて帰ったそうです。零下三十度以下にしみる中で、ふとんもなく、食べ物もなく寒さにも負けずに、子供たちは良く頑張ってくれました。本当に有難がたいことでした。

四月十日に日本人の死体の始末をする人がみえたので、その時私はまだ腰が立たないのではっていって見たら、菰にまるくってあちこちの木下に転がしてある死体を、まるで薪でもつむように牛車に乗せていって、堤防の下にごろごろと積んで本当に気のどくで見ておれんくらいかわいそうでした。

うちのお父さんは、棺に入れてもらって本当に良かったと思います。五月になったら、日本人も自由に働けるようになったので、私も五月の末頃から休んでもおれないのでモヤシ売りを始めた。一斗缶にモヤシを入れて歩くには病人上がりの私は、脱腸してしまい朝半日行っては休み、半日行っては休みしておりました。

体が続かないので今度は石鹸や煙草やあんころもちを売りにいきました。あんころもちは売るだけで、子供に一つもやることが出来ず、本当に子供にはすまんと思い、申し訳がなかった。毎日秋子と里美を連れて歩き、時には他人の洗濯をしてたりしてその日暮らしをしておりました。