鷲見家’s blog

世代間のルーツを今に織り込む活動をする兄弟のブログ

鷲見家の歴史[後編]〜災い転じて福となす〜

 

sntkd0624330.hatenablog.com

 こんばんは。以前あげた鷲見家の歴史「禍転じて福となす」の後編です

 

 

 
日本への帰還

昭和二十一年八月三十日心、日本人会の人から内地に帰るとの通知があり、早速道中の食べ物のコーリャンを炒めたりして、九月一日には出発し理春からは線路がないので徒歩で行軍し、雨の日など寒い足に豆が出来て子供たちは足がいたいと言って泣きながら歩き、九月十日頃に吉林の収容所に入り、ここでは食料の配給に当り有り難かった。吉林から新京までは無外車ですので恐ろしかった。十月のなかごろコロ島から船に乗って、十月二十一日博多に上陸いたしました。

福岡には主人の弟がいて、次男芳朗を小さい時そこへ養子にやっていました。博多からは三十分かければ会いにいけたので、会いにいきました。丁度芳朗がいて、兄の貞雄も兵隊から帰ってきていて、アメリカ軍の倉庫係として勤めているとのことで、電話で呼んら、すぐに来てくれました。

戦争に行ったのだから、会うことはできないと思っていたので、本「当に元気でいてくれて嬉しかった。家の人がせっかく来たのだら一週間でもいて、元気を付けて帰りなさいと言って下さったので、お言葉にそってお世話になりました。貞雄は倉庫係をしていたのでベイコンやいろいろな缶詰めをもらってきてくれたので、大変栄養を付けて高鷲村に帰ることができました。

 

岐阜県高鷲村での再出発

「高鷲へ帰っても入る家がなかったので、困りました。妹の家は疎開の人が入ってみえて、安く買い戻すことができたので、満州から一緒に帰った妹たちーが買い戻しました。その家の一間を借りて、落ち着くことにしました。

子供たちが、本当に長い間飢えと寒さに打ち勝ってくれたので、本当にありがたいと思いました。こんな目に合わせたのも親の責任です。許してください、申し訳なかった、今でも思っています。

十二月に入ると、いろいろな配給があり、食料も一人当りサツマイモが一俵づつと、お米が少しでした。イモが凍みるので毎日御飯がわりにイモばかり食べていました。今年は何もできないけど二十二年度の春が来たら、何か考えてやらねばと思っているところへ、ある人に土地がないのなら百姓はできないから、衣類の行商をやったらどうですかと言われた。

私は無口な方で、自分ながら商売をやれるかどうか心配しましたが、私は何も手に職がないので、仕方なく行商をやることした。お金がないので、国から生業資金を借りて二十二年二月から始めました。

 

生きていくために行商を始める

ある時は、岐阜に仕入に行き、注文の品物を買い入れるのに時間がたってしまって、帰りの汽車に間に合わず、夕ご飯がわりにサツマイモ一皿買って食べながら駅で夜を明かし、朝一番の汽車で家に帰り、朝御飯を食べてそれから荘川まで五里の雪道を衣類を背負って歩くこともあった。また雪の降る日は、国道でもバスも通らず人も通りません。歩くには近道を行くので、坂道などは雪をかきわけて行かなければなりません。また荷物をしょっているので汗だくになりました。

ひるがのは、今りっぱな町になり家も百軒ほどありますが、その頃は上がり口に二軒だけでした。家を出る時は、雪が降っていなくても途中で降り出して、ひるがのへ上がった頃には吹雪となり、道がわからなくなり日が暮れそうになり、高鷲村と荘川との境のお助け小屋の光を頼りに、たどり着いたこともありました。小屋には、木こりの人がみえて一晩泊めてもらい、次の日に道が分からないので、郵便やさんが来るのを待っていて荘川へ行ったこともありました。

長男貞雄が福岡から帰ると、役場から学校の先生になってくれと言われたので、高鷲の学校に勤めることになりました。家がないので土地を借りて家を建てるつもりで、学校の休みの日には、山の立木を買って切り出しをしておりました。しかし、屋敷を貸してもらえないので材木をそのままにしておかなければならなかった。

 

岐阜県土岐市曽木町蘭仙へ入植

その当時の学校の先生は給料が安いので自分が食べると少し残るだけでとてもお母さんに孝行ができない」と言って、昭和二十三年の数えの二十三歳で、学校を辞めて曽木町に入植しました。

私達も二十四年四月に藺仙に来ましたが、家が無いので隣の野村さんの家にお世話になり、次の日から開墾を始めました。食料が足らないので、ダイコンご飯を食べて毎日毎日やりました。私は冬は開墾をやり、夏には生活のために商売にでかけました。二十五年には家も建ち、貞雄もお嫁さんをもらい、これで一安心しました。

昭和二十三年には、藺仙開拓農業協同組合ができて二十五軒の家を建て、その準備から食料の配給からみんなの預金や借金、また農機具まで会計事務一切全部を、二十三歳の貞雄が引き受けました。昼は開墾、夜は事務で日曜日・祭日もなく冬なんかは三尺こたつを机かわりに、事務をやったり御飯を食べたりしたので、早く食べよ早く食べよと言われました。昭和二十八年に牛を三頭と鶏を二百羽飼ったりしたので、糞を畑に入れたりしていろいろな野菜が取れ、大変に助かった。

そんな折り、福岡に養子にやった次男芳朗が、腎臓病になって二十八年に二十六歳で亡くなりました。本当におとなしい子で、かわいそうで仕方がありませんでした。その後三十年までに三人の内孫ができて、長男敏彦・次男博彦・三男順一が生まれました。

昭和三十二年から長男貞雄は、開拓団の団長を引く受け、三十四年には曽木町の管理委員もやり手がないので受け、団のことで度々県庁に行かなければならないようになり増す々忙しくなりました。給料は団の役員が月六千円出すと言って下さるのに、五千円でいいと断ってしまう。県庁から職員が見えると家で泊まってもらい、帰りには梨の取れる時には梨をタマゴをといろいろ気をつかっておりました。

大川道路も自分で測量をしたせいか、毎年正月の二日と盆の十五日には決まってスコップを持って、道の掘れたところに土を入れに行きました。昭和三十六年の八月十五日にも行きました。いつもなら「ああ暑かつた」と言うだけなのに、この日は「ああ、えらかった」と言い寝こるんんでしまいました。

 

長男貞雄の死

この年の四月頃から、貞雄は足がだるいといつも言うようになりました。大分我慢をしていたと思いますが、九月の中頃から扁桃腺が悪くなり、つばきも通らないくらいになったので、医者に通い始めました。

あまり良くならないので、入院していろいろ検査をしてもらいました。医者から白血病だと言われ、急性なら三ケ月慢性なら一年と言われました。私はびっくりして何と言っていいか分かりませんでした。十月十二日岐阜大学病院に入院することになり、検査を受けると同じく白血病といわれました。本人には何も言えませんでした。

貞雄は扁桃腺の熱が下がるとすぐ「団の事務をやらねばならんから家から帳面を持ってきてくれ」と聞かないので、しょうがなく持っていきました。気分のいいときには事務をやりました。十月いっぱいは、御飯もおいしいと言っていましたが、十一月にはいっていろいろな検査をしたりカメラを飲んだり、ドロドロとしたものを飲まされたりしているうちに気分が悪なって、御飯が食べられなくなって、次第おとりでした。

これくらいなら検査なんかしてもらわない方がよいと思いました。次第おとりでむくみはでてくるし、ご飯は食べられず本当にかわいそうで仕方ありませんでした。

注射をうってもらった時は、気分もよいせいか「今度家に帰ったら、何にも役を引き受けずにテレビでも買って見てゆっくりするつもりだ。」と言いました。いかに身体も気分もえらかったことだと思います。

十二月三日の朝、県の職員が見舞いに来てくださって、話しかけてくださっても何も言わなかった。でも団(藺仙)の人が来て下さると「団をたのむ、しっかりたのむ」と言い、私達には「ますゑ、子供たちが大きくなったのも、俺とお前とで大きくしたのでない。お母さんのおかげと思わないいかんよ。」と言ってくれました。また子供の写真を見せたら、「俺にくれてくれ。」と言いました。それが最後の言葉でした。それからうとうととしていましたが、十二月四日五時頃「ごろ、ごろ」という音が致しましたので、見るともうだめでした。

これからというのにと思うと、変わってやりたいと思いました。本当に悲しいことでした。葬式は団の方で、団葬としてやってくださいました。本当に情け無くて仕方がございませんでした。次年三十七年十月には、嫁が子供たちを連れて名古屋へ働きに行くことになりました。

 

現在の鷲見家の形へ

私は一人では淋しいから、孫たちと一緒に暮らしたいと思いましたが、仕方がありませんでした。

そこで、親戚の方と相談し、三女秋子夫婦にお願いして私の面倒を見ていただくことになりました。秋子夫婦はよく面倒を見てくれて、親切にしてくれるのでありがたいと思っています。孫たち夫婦もいろいろと気をつかって、大事にしてくれるので本当にありがたいと思っています。

外に出ている娘たちも婿たちも、また孫たちもほんとうにやさしく、気をつかってくれますので、有り難く思っています。

悲しいこと淋しいこと、いろいろありましたけれど今は何も言うこともなく、幸せに暮らしています。皆々様、本当に有難うございます。